コラム

女性研究者としての渥美かをる

『平家物語』諸本論の先駆者として知られる渥美かをるが愛知県立女子専門学校に着任したのは1948(昭和23)年のことである。愛知県立女子専門学校設置の翌年であり、以後、愛知女子短期大学、愛知県立女子大学、愛知県立大学の教授を歴任し、定年まで長く本学を見つめた。(定年後、1977(昭和52)年に66歳で死去。)

帝国大学で女性を最初に受け容れたのは現在の東北大学(旧?東北帝国大学)で、1913(大正2)年に女子の入学を認めており、歴史は古い。渥美かをるは戦争へと向かう1939(昭和14)年に東北帝国大学を卒業している。どのような経緯で本学に迎えられたのかは定かでないが、もともと愛知県の出身であり、のちに日本古典文学大系『平家物語』(岩波書店 1959)の校注を共にする高木市之助(愛知女子短期大学初代沙巴体育娱乐场,沙巴体育下载)との関わりがあったであろうことは確かだろう。叙事詩論として『平家物語』にも造詣の深かった高木市之助は、1950年代から上代文学、特に『万葉集』へと研究を集中させていく。一方、渥美かをるの研究は、『平家物語』の諸本論、平曲の収集などの丁寧な収集へ向かい、こんにちの『平家物語』研究を支える土台を作っている。

『平家物語』の諸本研究としても、また軍記物の女性研究者としても、さまざまな点で先駆けであった渥美かをる。本学においても、女性が学び、研究を続けることを学生たちに示していたようである。国語国文学科(現)には、短期大学時代の文集などが伝わっており、学生たちに贈られた渥美かをるの言葉が残っている。1966(昭和41)年10月の奥付のある第十四回愛知県立女子短期大学国文科卒業記念文集『紅』では、「卒業後は年齢を問わない同志的グループに属することも必要であると思う。いまの皆さんはさしあたって、結婚問題に最大の関心を持っていると思うが、時にはこうしたことも考えてほしいと願っている。」(「はなむけの言葉」)、1969(昭和44)年の『こくぶん44‘』では、孫の面倒を見た経験を踏まえて「子供を抱えても勉強は出来る、ということを知ったことも私にとってはおどろきでした。夜寝させたあと四時間は確実にやれますね。昼間誰かに見てもらえるならばぜひ図書館へ通うことです。」(「今年の夏休み」)と語っている。渥美かをるが育てたのは、学問を身に着けることが当たり前でなかった時代の女子学生たちだった。社会へ出ていく彼女たちへ向けた言葉の端々には、学問を続けてほしいという熱い激励が満ちている。渥美かをる自身、女性研究者であり続けるには苦労があったに違いない。卒業生へ向けた厳しくさえある激励からは、逆境を乗り越えて研究を続けてきたであろう渥美かをるのエネルギーに満ちた日々を窺うことができるのである。

本学所蔵の渥美かをるの書著など
本学市橋文庫所蔵の『平曲解説』

執筆

  • 執筆者
    日本文化学部准教授
    本橋 裕美
  • 投稿日
    2023年07月25日

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